豊国男の日記

日常生活の中で、考えついたことを綴ります。テーマは雑多な分野に及びます。

「給付型奨学金」の問題から、大学教育について考えること

来月の参院選での公約に、「給付型奨学金の拡充」を掲げる政党が多いです。
大学に進学するにあたり、経済的事情で進学を断念するようなことを少しでも減らそう、という思惑なのでしょう。

 

多くの学生が利用している「日本学生支援機構」の奨学金はすべて貸与型で、卒業後に返済しなければなりません。現在、大学を卒業しても非正規雇用のような収入の低い職にしか就けず、返済が滞っている例は少なくないようです。テレビのドキュメンタリー番組では、奨学金返済のために風俗産業で働く女性のことが取り上げられたりしています。

 

「給付型奨学金」の問題を考えるにあたり、支給対象をどのような学生にするか、が大きな問題点になります。
現行の制度では、数少ないながらも存在する「給付型奨学金」は、かなり成績が良くないと受けられません。もっとも、奨学金の意義を考えれば、当然のことですが。
仮に、「給付型奨学金」の拡充が実現されたとしても、財源その他のことを考えれば、恩恵を受けられる学生はさほど多くはならなさそうです。

 

「大学に進学したい、しかし家庭の経済状況は芳しくない」という場合、実現するかどうかあやふやな制度をあてにするよりも、考え方を変えてはいかがでしょうか。

 

大学には、通信制のものもあります。通信制の場合、独学でレポート課題に取り組まなければならないなどの難点はありますが、費用は一般の大学に比べれば格安です。しかもスクーリングに出席する場合を除けば、基本的に通学しなくてもよいため、高卒で働きながら、地元で暮らしても大学教育を受けられます。こうしたものを活用してはいかがでしょうか。

 

通信制では大学卒と扱われない」などといった声もありますが、名もない大学に数百万円を支払い、ほとんど勉強せずに卒業しても、まともな大学卒としては扱われませんし、身につくものもあまりないでしょう。
そもそも、大学に進学するのは勉強するためなのでしょうから、その点でいえば通信制大学はコストパフォーマンスはかなり高いです。

 

今後の時代、「皆が大学に行くから自分も行く」といった考え方では危険です。自分にとって、大学教育が本当に必要かどうかを熟考し、必要であればそのための手段を考える、という姿勢が不可欠です。こうした姿勢が、よくいわれる「生きる力」につながるのではないでしょうか?