豊国男の日記

日常生活の中で、考えついたことを綴ります。テーマは雑多な分野に及びます。

「生産性」について

当ブログ、約1年ぶりの更新になります。

今後、またゆるやかに更新いたします。

よろしければお付き合いください。

 

自民党の某議員が、「LGBTの方々に、税金を費やすのはいかがなものか」といった趣旨の記事を雑誌に寄稿し、そのことに対する批判が起こっています。

この議員いわく、「LGBTの方々は子供を作らないのだから、生産性がない」とのことらしいです。

 

こうした発言をする方には、自分とは違う生き方を選んだ(選ばざるをえなかった)方々に対する想像力が欠落しています。

「生産性がない」という、かなり抽象的な言い回しですが、「子供を作らない」のが「生産性がない」のであれば、不妊に悩む夫婦も、あるいは当人たちの合意で子供を作らないことに決めた夫婦も、「生産性がない」ことになります。

 

この議員は、「政権を長年担当しながら、国民の生活を良くできない自民党の議員には生産性がない。その議員のために、税金を費やすのはいかがなものか」と主張する人に、どう反論するのでしょうか?

 

「障害者は不幸を作り出すことしかできない」と考え、障害者施設の入居者方の大量殺人に及んだ男がおりますが、この事件の容疑者には「自分も事故や病気で、障害者になる可能性」について考える想像力がありません。だからこそ、自分が以前勤務していた施設の方々を殺すまでに至ったのでしょう。

 

同様に、例の議員も、「自分が価値がないと考える生き方を、何らかの事情で、いずれ自分がしなければならなくなる」可能性については想像が及びません。だからこそ、上記のような記事を雑誌に寄稿したのでしょう。

 

そもそも政治家は、特定の人の利益のために働いているわけではありません。国民全体のことを考え、良い政策を実行するために、多額の歳費が費やされているはずです。そのことを承知できない例の議員は、中学や高校で、公民の時間は居眠りばかりの「生産性がない」時間を過ごしてきたのでしょう。

 

とはいえ、こうした議員が当選したのは、私たち有権者が投票したからにほかなりません。

私たちが賢くなり、与えられた権利を的確に行使することが、より良い社会に暮らすためには不可欠です。

 

 

 

東筑高校・彦根東高校の甲子園出場から考えること

夏の甲子園の真っ最中です。
 
近年、甲子園に出場するのは、野球に力を入れている私立校が多く、公立校は数が少なくなりました。公立校の場合、生徒集めの手段が限られていることや、野球部に割り当てられる予算にも限りがありますから、こうした流れはやむを得ないことです。
 
そうした中、今大会では県内屈指の公立進学校が2校出場しました。福岡代表の東筑高校と、滋賀代表の彦根東高校です。
東筑高校は初戦で敗退しましたが、彦根東高校は1回戦をサヨナラ勝ちし、大会を大いに盛り上げました(2回戦で敗退)。
 
「文武両道」という言葉がありますが、彼らは学業と野球を高いレベルで両立させています。地方の、偏差値40台で、特にスポーツが強いわけでもない公立高校出身の管理人からすれば、誠にうらやましい限りです。
 
こうした子たちとは逆に、「勉強も苦手、スポーツも苦手」という子も少なくありません。今はあらゆることが二極分化しているようです。
 
実際、管理人の故郷でも、実家近くの高校が9人の野球部員を集められず、4校の連合チームで今夏の地方大会に出場しました。4校のいずれも、入学難易度はかなり低いです。
こうした高校では、大学入試のために勉強する子はほとんどいないでしょうが、部活動の加入状況も芳しくありません。
 
彼らは放課後、どのように過ごしているのでしょうか?遊びやアルバイトに忙しいのでしょうか?学校にも嫌々通っている子が多いのでしょうから、部活動などやりたくもないのでしょうか?
 
こうした状況を見るにつけ、日本の格差社会化は深刻な状況です。
優秀な人は何事にも熱心に取り組む一方、能力の低い人は意欲もなく、何事にもやる気が起きない。よって両者の差はますます広がる。
優秀な親を持った子供は、親の姿を見て、何事にも頑張るようになる。無能な親の元に生まれた子供は、親の姿を見て、ダラけて過ごすようになる。こうして、貧困が世代を超えて連鎖する。
 
最近、給付型奨学金の拡充など、貧しい子にも高等教育を受けさせる機会を与える動きが出ていますが、今の時代「親が貧しくとも有能」な子はどのくらいいるのでしょうか?

なぜ、「自分の頭で考える」必要があるのかについて

昨日のエントリーで、「自分の頭で考える」ことの大切さについて述べてみました。
しかし、「言うは易く行うは難し」とことわざにもあるように、なかなかできることではありません。
その理由は、「周りと同じことをしていればなんとなく安心」という考え方が、まだ多くの人にあるからでしょう。
 
しかし、この考え方は賢明とはいえません。
というのも、今や「世間並みの普通」という基準があやふやになり、「周りと同じ」でいたいと思っても、周りにはいろいろな人が存在するようになったからです。
 
昨日のエントリーでも触れましたが、今や40代で20代の子供がいる人も、40代で未婚の人も、どちらも珍しくはありません。言ってみれば、どちらも「普通」なのです。
となれば、自分がどうなりたいかを考える必要が出てきます。
 
また、バリバリ働いて高収入を得る人も、「低収入まったり」の生き方をする人も、どちらも存在する社会では、「自分がどのような働き方をしたいか」考える必要があります。
 
その意味で、昔は恵まれていたともいえます。「20代で結婚するのが普通」、「学校を卒業したら就職するのが普通」だったのですから、「考える」必要もなかったのですから。
(結婚したくない人や就職したくない人は、昔も一定数いたはずですから、そうした人たちに「選択の自由」がほとんど与えられていなかったことを考慮すれば、一概に「恵まれていた」とは言い切れないかもしれませんが)
 
時代が変われば、個人に求められる能力も変わります。
昔は、「人並みに生きられる」ことが大事な能力だったのでしょうが、今はそれが「自分の頭で考えられる」ことに変化した、ということでしょうか?

格差社会を生き抜くために

当ブログ、約1年ぶりの更新です。

かなりサボってしまいました。

今後、また少しずつ更新していきます。

 

今日は815日、終戦記念日で、お盆です。学生さんは夏休みで、働いている方々も今お休みという方は多いのではないでしょうか?

 

お盆のときは、故郷に帰省される方も多いと思います。

毎年、今の時期には新幹線も高速道路も大混雑になるのは、その証拠です。

 

故郷に帰省しますと、旧友に会うという方も多いでしょう(管理人もそうです)。

管理人は今40代半ばですが、このくらいの年齢になると、同級生同士の間でも様々な差が目につくようになります。

 

一昔前は、40代半ばといえはほとんどの人が家庭を築き、子供は中学生か高校生くらい、というのが世間一般の相場だったと思います。

しかし今や、40代でも未婚という人は男女問わず珍しくありません。

また、子供がいる人でも、その子供の年齢はバラバラで、40代で20代の子供がいる人もいれば、子供が生まれたばかりという人もいます。

 

職業でも、かつては40代でアルバイトという人はほとんどいなかったのでしょうが、非正規雇用が働く人の4割に及ぶ現在、40代でもフリーターという人は珍しくなくなりました。

 

雇用形態が多様化すれば、それに伴って収入格差も大きくなります。

実際、40代で年収200万円という人の話が週刊誌などでも取り上げられていますが、もはや驚くことでもなくありふれたものになっています。

中高年で未婚の人が増えたのも、この収入格差が大きな要因であることは疑いありません。

実際、同年齢層であれば、収入の低い人(特に男性)ほど既婚率が低いのは、各種の調査で明らかになっています。

 

本当に、夢のない時代です。格差社会の底辺にとどまると、「食うのがやっと」の日々であり、しかもその生活が延々と続くことになります。

 

では、こうした社会で、私たちはいかに生きるべきでしょうか?

 

まず第一に、「現実から目をそむけない」ことです。

どんな崇高な理念を唱えたところで、人間が生きていくためにはお金が必要です。

低収入の職業に就いてしまえば、ごく限られたお金しか得られません。

 

お金を得るためには、収入の良い職業に就く必要があります。

収入の良い職業に就く一番の近道は、良い大学を卒業することです。

そのためには、子供のときから学習する習慣を身につけるのが不可欠です。

 

学習することは、大人にも必要です。

わかりやすい例では、今の時代、就職先が不幸にしてブラック企業だったという話は人ごとではありません。

このような場合でも、労働法の知識があれば、そのブラック企業から残業代をきちんと取れたり、違法な解雇に対しては法的に訴えるという手段が取れます。

 

次に、「自分の頭で考える習慣をつける」ことです。

例として、高校生が進学先を選ぶに当たって、教師や親の意見を聞くのは大事ですが、それだけに頼るのは危険です。

特に教師の場合、進路を考えるのは一人の生徒に対してだけではありません。また、しょせんは他人ですから、仮にその生徒が進学してから困ることになっても、教師にとってはさほどの害はありません。

 

しかし、大学まで卒業して職にあぶれれば、その当人にしてみれば人生が狂います。多額のお金をかけて、若いときの4年間を費やしたあげく、底辺の職に就くことになれば、まったくの徒労になります。

そのようなことを避けるためにも、「その大学からどのような就職先があるか」については、厳しすぎるくらいの目で見て、慎重に選ぶべきです。

 

大人にとっても、「自分の頭で考える」ことは必要です。

大人になれば、どんな職業に就くか、結婚すべきか否か、子供を作るか否かなど、人生を左右する大きな選択に幾度も直面します。その際、きちんと考えて出した結論と、「なんとなく」出した結論では、精神的な満足の度合いがまるで違うのは、火を見るより明らかです。

 

「現実ときちんと向き合い」、「自分の頭で考える」ことができれば、この厳しい格差社会でも生き抜けるように思います。

 

皆様は、どのようにお考えでしょうか?

「能力の高い人」の「選択の自由」について

私たちは生きていく上で、数多くの選択をしながら生きています。
進学する学校を選ぶ、就職先を選ぶ、結婚相手を選ぶ、といったあたりは、かなり大きな選択です。今回のエントリーでは、「選択」について考えてみます。

 

一般的に、「能力の高い人ほど、選択の幅が広い」と考えられています。
しかし、よく見ますと、必ずしもあてはまりません。

 

例をあげますと、成績の良い中学生が受験する高校を選ぶ際に、「その近辺で一番偏差値の高い高校」を選ぶことがほとんどでしょう。仮にその中学生が、「会計やパソコンに興味があるから商業高校に行きたい」、「電気や機械に興味があるから工業高校に行きたい」、「植物や野菜の栽培に興味があるから農業高校に行きたい」と希望しても、周囲の大人(親や教師)が反対するのではないでしょうか?本人によほど強い信念があり、周囲の大人を納得させられるだけのものがなければ、成績の良い中学生が職業系の高校に進学することはないでしょう。こう見ますと、能力が高くても、選択の幅が広いわけでもありません。

 

同様に、一流大学を卒業した学生が、大手企業や役所以外に就職を希望しても、やはり周囲からは「考え直したほうがよくないか?」という反応が返ってくるのではないでしょうか?「将来飲食店を経営したいから、修行のために飲食店で働きたい」、「早くに独立して会社を経営したいから、ベンチャー企業に入社したい」などと希望しても、「今までしてきたことが無駄にならないか?」などど諭されるのが、一般的な反応でしょう。

 

結局のところ、能力の高い人は高い人なりに、選択の幅は限られています。
それでも、「能力の低い人の選択の幅が限られていることに比べれば、まだ恵まれている」という意見はあるでしょう。確かにそのようにも考えられますが、「思い切ったチャレンジをするのが、なかなか大変である」ことを考えれば、必ずしも良いことばかりでもないような気もしますが、いかがでしょうか?

私たちの社会は、明らかに進歩しています

新聞や雑誌、テレビなどで、「生きづらさ」について取り上げられることがあります。
昔と比べて、今は生きづらくなっているようです。

 

確かに、非正規雇用の拡大と、それに伴う収入格差の拡大、貧困の問題、歯止めのかからない少子高齢化、他にも近年はやや減少したものの、自殺で亡くなる人もまだ多いなど、私たちの社会には様々な問題が山積しています。

 

こうした個々の事実を取り上げると、「生きづらい」社会であるのは間違いありませんが、今回のエントリーでは、「昔より良くなった点」について考えてみます。

 

最も「昔より良くなった点」といえば、多様性が認められるようになってきたことです。以前のように、多くの人が似たような生活パターンだった頃には、「学校を卒業したら正社員として就職し、20代で結婚して2人くらいの子供を育てる」といったモデルケースがありました。

 

しかし今や、30歳を過ぎても結婚しない人は珍しくありませんし、またそのことに対する世間からのプレッシャーも昔ほどではなくなっています。「結婚は、したい人はすればよい」といった考え方も、かなり浸透してきました。

 

皆が結婚した時代には、「父親が働いて経済的に家族を支え、母親が家事・育児を行うことで家庭面で家族を支える」といった家庭がほとんどで、それ以外の生き方は認められませんでした。


例えば、「自分は家族を養うよりも、趣味のほうに時間やお金を費やしたい」と希望した人は昔もいたのでしょうが、当時はよほど強い信念を持っていなければ、そうした生き方を貫くことは不可能でした。

 

今では、「生活のための仕事は最小限にして、自分の楽しみのために時間を使う」生き方をしている方もおられますし、「学生や主婦のパートでなければ、正社員で働くのが普通」だった時代に比べれば、フリーターで居続けることも容易になっています。
望めば、家庭や会社にしばられない生き方ができるようになった点は、明らかに昔よりも良くなった点です。

 

もちろん、その裏には「結婚したくてもできない」、「正規雇用を希望しても就けない」方が数多くおられますが、「結婚にこだわらない」、「フルタイムの仕事は自分の時間が取れなくて嫌だ」という方にとっては、むしろ生きやすくなっています。

 

「少数派の意見も認められるようになった」ことは、それだけ私たちの社会に奥行きが出てきたということで、昔より進歩した証拠です。問題になっている「ヘイトスピーチ」などは、いわば「異質な者を認めない」典型ですから、そうした考え方がいかに危険かは多言を要しません。

 

「周囲の人たちと同じである必要がなくなった」ことは、大いに歓迎すべきことです。
今後ますます多様性が認められるようになれば、より生きやすい社会になるでしょう。

「サラリーマンであることのメリット」について

近年、ブラック企業非正規雇用の問題が、テレビや新聞でしばしば取り上げられているせいか、「サラリーマン」であることのデメリットがとかく強調されているような気がします。今回のエントリーでは、それとは逆に「サラリーマン」であることのメリットについて考えてみます。

 

第一のメリットは、毎月決まった給料が入ってくることです。自営業者は、売り上げが減れば当然収入も減ります。事業を営む上での固定費(テナント料、人件費が主なものですが)は、毎月ほぼ決まっているためです。

 

第二に、「仕事能力の差による収入の差が、さほど大きくない」ことです。社長と高校を卒業したばかりの新人とを比べても、給与の差はせいぜい数倍といったところです。

 

第三に、自営業者に比べれば、仕事の結果について厳しく問われることもそれほど多くないことです。自営業者の場合、自分の生活を維持できるだけの売り上げを上げ続けなければ、廃業せざるを得ません。サラリーマンの場合、自分の会社が赤字になったとしても、ただちに職を失うことはあまりありません。倒産して職を失うことはありますが、よほどどうしようもない場合に限られます。しかも、自営業者であれば、廃業しても借金が残れば返済し続けなければなりませんが、サラリーマンであれば、会社がどれだけ巨額の負債を抱えて倒産しても、いっさい支払う必要がありません。

 

現実に、今の時代は個人経営の自営業者にとっては、きわめて厳しいです。地方の商店街がシャッター通りと化したのが、そのことを雄弁に物語っています。「跡継ぎがいない」から廃業したお店は少なくないでしょうが、子供が後を継がない事実を見れば、もはや個人経営の自営業者で生計を立てていくのが困難であるのは明らかな事実です。

 

実際、親の職業を継がなかった自営業者の子供は、どのような職業に就いているのかといえば、おおかたはサラリーマンになっているのでしょう。

 

他にも、サラリーマンであれば、少なくとも週に1日は休みがありますが(なければ雇い主が法律違反をしています)、自営業者は休めばその分売り上げが減りますから、安易に休むわけにいきません。実際、チェーン系の店舗でも、個人経営の店舗でも、週に1日も休んでいるところは少ないはずです。

 

以上のようなことから考えて、「就職できなければ起業すればよい」、「サラリーマンは組織にしばられるから、自由に生きられない」などといった声に、安易に惑わされないように気をつけましょう。

 

むしろ、「週に1日くらいは休みが欲しい」、「収入に波があるのは嫌だ」、「自分がそれほど優秀だとは思えない」という方(ほとんどがあてはまるのではないでしょうか)は、サラリーマンになったほうが満足できる生活が送れます。自営業者・フリーランスの世界は、サラリーマン社会よりもはるかにシビアなのです。